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身内の不幸
先週の土曜日に父の妹が急死した。心筋梗塞だったそうだ。享年61歳。私はこのおばに最後に会ったのがかれこれ10年も前になるだろうか・・。

父は鹿児島生まれの中国人で16歳の時から横浜に来て中華街でコックとして働き出す。その約10年後に母と結婚して私が生まれる頃、父は独立して本牧にある小さな住居が二階にある店舗を構える。26歳の時であった。父も母もそれぞれに10人兄弟姉妹という大家族である。商売をやっていたと言う事もあり、その兄弟姉妹たちは田舎から出て来ては我家を頼ってやってくるのだった。とにかく小さな頃から気がつくと父方母方それぞれの親戚がだれかしらいつもいるような家だった。その中には今回亡くなったおばもいた。

おばは若い頃きれいだったらしく、やはり華僑で商売をしている家に嫁いで行った。何があったのか良く分からないが大人しく内向的な性格のおばはこの頃から心を病んでいったのだった。それから彼女の人生は閉ざされた病院という世界でのものだった。私は子供だったため、多くは教えてもらえなかったが子供心に「そういう人達がいる病院」にいるというようなことは察していた。父の他の妹の所に世話になったりしながらも、最後は施設に入っていた。そしておばはそこで数年暮らし、そこで亡くなった。生活保護を受けていたらしく「お別れ会」という葬式に代わるものを施設でやってくれた。私たち甥や姪も都合のつくものは参加したが、ほとんどの人が会ったことのないおばの息子がなかなか来ない。お別れ会も始まり、私たち親族が焼香代わりに鐘を鳴らす。あまり線香を焚くと報知器が探知してしまうためだった。その後、「●●さんと最後のお別れですので、お時間のある方はホールまで来てください」と施設内に放送が入る。たくさんの入所者が列を作っていたが中には涙ぐむものもあり、おばとのお別れをしてくれた。晩年のおばは数年前に病気も完全に良くなり、社会へ少しでも復帰するべくという気持ちもあったようだ。施設の人が金曜日まで本当に元気だったのにあまりに突然で・・と言っていた。この施設、いわゆる精神に障害がある人たちなどが多く暮らすところだったようで、お別れに来てくれた人を見て私はちょっと困惑した。ここで?晩年を過ごし、寂しく死んでいったんだと・・。

一通りのお別れが済み、市が手配した葬儀社の方が棺にお花を入れるように言った。家族はみんな何がどうなっているか分からないために花を持ってきた人間は一人もいなかったのだが、私はてっきり別れたおばの夫が彼女の生活費を工面してくれていると思っていたので、生活保護を受けていたと言う事も知らずにいたのだが、葬儀から火葬に関する費用は市が負担してくれるようで、用意された花はばあちゃんちにありそうな仏花、黄色と白と紫の菊と慰めばかりのカサブランカがなんとも可哀想だった。花を入れ終わっても一人息子はまだ来ない。ホールもだんだんと物が片付けられて行ったところで、従兄弟が彼の父親の兄の奥さんと二人でやっと到着した。葬儀社の人が「もう棺を閉めてしまうとお別れが出来ませんのでもう一度お顔を見てあげてください」と言った少し後だった。彼は閉められる寸前の市の用意した一番安い棺に眠る母親が骨になる前にその死顔に会えた。前夫と疎遠になっていることは感づいていたが、彼が最後に母親に会ったのはいつだったんだろう・・ホームの人も会った事がないと語っていたのでかなりの年月、近くにいながら顔を見ていなかったと言う事になる。前夜は一晩中泣いていたと聞いたが、立ち尽くす彼のその背中から感じる事が出来たのは後悔と言う思いだけ、に感じられた。

たった一人の母親と彼女のたった一人の子供が、年月を超えて引き合わせてくれたものは「母親の死」という取り返しのつかないイベントだった。

一緒に来た彼の父親方のおばに当たる人も、そこそこの商売を何十年と続けている家柄らしい、どちらかというと身なりも裕福ということが見えるような装いで、おばの事もそれこそ何十年前から知っている人だったようで、人柄は決して悪い人でないと思った。火葬場についてから荼毘に付され、お骨を拾うまでの間、私たちは休憩室で話しをしていた。色々あったけど、会いに行くタイミングを見失ってずるずると、そのうちどの顔下げて行けばいいか分からなくなってしまった、と言う事でこの女性は会いに行くこともなかったそうだ。そして「あそこでたくさんの人に見送ってもらえて良かった」と言った。一瞬冷たいな、と思ったりもしたのだが、社会に適応できず心を病み、実の兄弟からもそれぞれの事情で結局は誰も面倒を見ることが出来なかった(おばAは数年間面倒を見ていたみたいだが、家族が病気でそれもままならず、今の施設にお世話になったそうだ)ある意味見離されたおばは、ああやっておばと同じ様に心を病んだり、障害を持ちながらも、生きていた同志たちに囲まれて、健常者といる時にはできないような楽しい思いもしたんじゃないかと思う(そう思いたい)。

心身ともに健康で、車を持って、家を持って、子供に教育費を使って、ペットを買って、ブランド物のバッグを持って、貯金もあって株式投資をして・・おばの人生の大半はそういうものとは一切縁がなかったが、だからと言って可哀想だとジャッジは出来ない。そういうもの全てやそれ以上に縁がある人だから幸せだとも限らない。彼女の欲しい物、それは子供に会うことだった。彼は現在38歳で家業をついで一軒の店を任されているという。結婚して5歳の女の子がいて・・そこそこ普通の幸せを手に入れているようだった。誰もが「何で母親に会ってあげなかったの」と言いたかったに違いない。しかし新しい母親もいて、そこに本当の母親のいない生活が本当の生活になって、兄弟姉妹たちでさえおばを救おうと向き合えなかった理由も彼なりにある。誰も彼を責めたりしなかった。むしろ「最後の最後に会えて、本当に良かった」と言っていた。おばも報われるだろう。遺品として受け取った母の晩年の頃の鎌倉に行った時の写真や安物の腕時計を鞄に仕舞い、遺骨は一旦妹の所へ行く事になった。納骨は来週の火曜日に、近くにある父が建て祖父母の眠る我家の墓に入る事になった。

まあそんなところですが、父をはじめとして父の姉と妹三人とその夫と子供たちが集まったのですが、まあ父の姉妹はやかましい(笑)。お別れ会が始まる前におばAとおばBが言い合いをはじめ、おばBは「もう嫌だ、あんたとは口聞かない」などと始まる始末・・。結局解散する前でにこの二人はあと数回小競り合いしてました(笑)。最後はその中でも一番大人しい長女と末女が我家にやってきたので、丁度そこにあったアルバムの一枚の写真には亡くなったおばに抱かれる赤ちゃんの頃の私や、同様におばAの写真も見つけて我家の本牧時代の話に花を咲かせました。

親と口聞いてない、親の顔を何年も見てない、そういう人は次に会うときが親の死に目、だったりと後悔しないようにしてほしいと願うのでありました。
author:POP, category:ディープな話, 21:26
comments(2), -, - -
Comment
 とっても難しい問題だよね。おばさんは息子さんに会いに来て欲しかったのかな?それとも幸せに生きて欲しかったのかな?そんなこと思う。
 息子の幸せな姿は見たかっただろうな、とは思うけど。
 夫の母が倒れて、もう14年、兄弟姉妹なんて、最初の1年くらい、迷惑なうれしがらせを言いに来るのと、遺産相続放棄のハンコが欲しい時にやってくるだけでしたよ。母は5年くらいは「私が呼べば弟妹は飛んでくる」とか言ってましたけどね。
 10年たったくらいから、「兄弟なんて他人と同じだ・・」とか言うようになりましたよ。
 ま、私にとっては全員他人なので関係ないけどさ。
 今、夫は最後の相続関係のあと始末に走り回ってます。ヤツは好きでやってるからいいけど、私のかわいいかわいい砂糖菓子の長男にはあんな苦労はさせたくないわ。これはしみじみ思うのよね。
ぴっぴ, 2007/10/01 12:02 PM
会いたくて会いたくて仕方なかったみたいだよ。
なにやら別れてから一度も会ってないんじゃないかって話し。
一生懸命育てても結局他人より冷たかったり、親子って難しいね〜。
親切な他人の方が適当な距離があるしラクなのかもね。

私も寝たきりになって、たらい回しにされるのかしらー、不安(笑)
POP, 2007/10/01 10:29 PM